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ピアノ協奏曲変ホ長調は、ジョン・アイアランドが1930年に作曲したピアノ協奏曲。この曲が彼の唯一のピアノ協奏曲であり、ヘレン・パーキン(Helen Perkin)(1909年 - 1996年)に献呈された。初演は1930年10月2日、〔訳注:1893年開場、ロンドンのランガム・プレイス(Langham Place)のコンサート・ホール。1895年から1941年まではプロムスの本拠地であった。(Queen's Hall)〕でのプロムスにおいて、被献呈者のパーキンによって行われた。 == 概要 == このピアノ協奏曲は瞬く間に成功を収め、クリフォード・カーゾン、モーラ・リンパニー、アイリーン・ジョイス、ジーナ・バッカウアー、アルトゥール・ルービンシュタインといったピアニストらが度々演奏した。この成功に気をよくしたアイアランドは2作目の協奏曲の作曲を計画したが、第1楽章を完成するだけに留まった。彼はこの作品を「伝説 ''Legend''」と命名し、ピアノ協奏曲と同様にヘレン・パーキンに献呈した。彼女は1934年1月12日、エイドリアン・ボールト指揮、BBC交響楽団の演奏でこれを初演している〔。 アイアランドはパーキンに対して恋心を抱いていたが、その想いが実ることはなかった。パーキンはゲオルギイ・グルジエフを信奉するジョージ・アディー(George Mountfold Adie)と恋仲となり、しばらくすると彼と結婚してオーストラリアに移住してしまう。そのため、アイアランドは上記2曲の献呈を取り下げた。 ヘレン・パーキンは王立音楽大学でプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」を演奏しており、アイアランドはこれを聴いてロシア作品に影響を受けたものと思われる〔。彼のピアノ協奏曲が出版された時にラヴェルの「ピアノ協奏曲 ト長調」はまだ世に出ていなかったため、彼はラヴェルの曲を聴いてはいない。しかし、アイアランドの協奏曲にはプロコフィエフだけでなく、ラヴェルの協奏曲の影響が指摘されている〔。ジャズのリズムには、ガーシュウィンの作品もヒントとなったと見られる〔。 この曲を最初に録音したのはアイリーン・ジョイスであり、1942年にレスリー・ヒューアード〔訳注:1897年生まれ、イギリスの作曲家、指揮者。ボールトの跡を継いでバーミンガム市交響楽団の音楽監督になった。(Leslie Heward)〕の指揮、ハレ管弦楽団の演奏であった。ジョイスは1949年にプロムスがアイアランドの70歳の誕生日を祝う特別な回となったとき、この曲のソリストを務めた。この演奏も録音され、商業販売された。このコンサートの後、ジョイスは夫とともにアイアランドを夕食に誘っており、その席にはパーシー・グレインジャーも出席していた。アイアランドの80歳記念コンサートの際にも、この協奏曲が演奏された。この曲の録音はエリック・パーキンが2回、ピアーズ・レーン〔訳注:1958年生まれ、オーストラリアのピアニスト。協奏曲のレパートリーは75曲を超える。(Piers Lane AO)〕、キャスリン・ストット〔訳注:1958年生まれ、イギリスのピアニスト。王立音楽アカデミー等で教鞭も執っている。(Kathryn Stott)〕、コリン・ホースリー〔訳注:1920年生まれ、ニュージーランドのピアニスト。イギリスで活躍した。2012年没。(Colin Horsley OBE)〕、ジェフリー・トーザー〔訳注:1954年生まれ、オーストラリアのピアニスト、作曲家。神童であり、8歳でオペラを作曲した。2009年没。(Geoffrey Tozer)〕ジョン・レネハン〔訳注:1958年生まれ、イギリスのピアニスト、作曲家。(John Lenehan)〕がそれぞれ行っている。 この曲はかつてイギリス人の書いた最高のピアノ協奏曲であるとまでいわれたが、今日では顧みられることは少なくなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピアノ協奏曲 (アイアランド)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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